ビール、チェコ語、ポーランド語

A record of my love for beer and languages

世間知らずと、2024

 

ビールのことはかなり詳しいのに、世間で起こっていることには無関心という状態になって数年経ちますが、それでも生きていくのに不都合はありません。

 

なんでそんなことも知らないのと言われたら、そんなことを知らなければならないのはなぜ? と聞くだけで、大抵敵対関係を構築する事ができます。もちろん、そんなことは今は言いません。単に興味がないからと答えるようにしています。

 

世の中で今何が起こっているのか、未来はどうなっていくのかという予測、今、はやっているもの。これらについてはかなり真剣に情報を追いかけているはずの人々は、自分の幸せのことについて何も考えていないような気がするのは私だけでしょうか。口を開けば、お金の話。それか会社の愚痴。

 

私が幸せになるのは、これです。って真っ直ぐ前を見つめて言える人の少なさと反比例するように、誰かと誰かが付き合っているとか、誰かの不祥事とか、それが芸能界でも自分が生活している場所でも同じです。

 

日本の、某軽自動車メーカーの不祥事のことを聞いたのも昨年12月の末で、そんなことが日本で起こっていたんだと思いつつ全く興味がなく。信頼していたのに裏切られたっていつもの論調に辟易します。裏切られたのが悪いのではなく、無条件で信じた方に問題があるのは明白で。大企業だから、知名度があるから、それは信頼する理由ではありません。

 

チャチャ入れるのはこのくらいで。

 

2024年は、本質を求めようと思います。

スラブ系の言語の活用が無限にあるような錯覚を覚えるのに、外国語学習者からすれば日本の変化も天文学的です。それを一瞬で理解できる私たち日本人は、言語の才能に恵まれているわけではなく、単に、接する時間が多いから。というのはこの数年で確信となっておりますが、それでも運動神経のいい人とあまり得意ではない人がいるように、少なからず才能は関係あるような気がします。でも、それを上回ることのできるのが地道な努力。

 

複数形になると単語が変化することは、大体どの言語でも同じです。

それなのに、チェコ語やポーランド語になると急に難しく感じるのは。

単にその言語がまだ自分のものになっていないだけです。

浸透率のようなものでしょうか。

 

ポーランド語や、チェコ語って、学習環境が英語なので、いつのまにか英語も学習しているような状況ですが、だからと言って英語の文法を学んでいるわけではありません。

 

このポーランド語は、英語ではこうなりますという例文たたくさん見ているだけです。しかし、

 

洋楽聴いてて“ I can do better" って聞こえてきた時に、日本語にしてないのに相手がいいたことが分かる経験をしています。決して何かコツを学んだわけではありません。そんな確信はありませんが、ずっと使っていると(接している)いつの間にかその言語に対する抵抗感がなくなっています。

 

“Chciałbym czegoś napić “

このポーランド語を日本語にすると、“私は、何か飲みたい。“

なのですが、日本語にすると急にこのポーランド語が違和感になるわけです。

この日本語訳がおかしいというわけではなくて、自分の脳内で、違和感を感じるわけです。

 

何かを飲みたいと思った時に発言する、日本語とポーランド語の違いって自分の頭が理解しているような。日本語で、“何か食べる?“って聞かれた時に、“いや、何か飲みたい“と思った時に、ポーランド語と英語が同時に出てきます。日本語を母国語ではなく一番得意な言語にしているような。

 

と、いろいろと書き連ねてきましたが。

自分が学んでいる言語で書かれているもののを、たとえ短文でも理解できた時は、本当に嬉しいし、頭がふわっと(鳥肌の最上級のような)する感覚があります。

 

英語だけを学んできたわけではありませんが、いろんな言語を英語で学ぶことで、下の字幕を見なくても見れる映画が増えていきますし、“あーこの翻訳者はそう解釈したのか“って感じるのは言語学習の醍醐味のような気がします。

 

2024だって、本質ではないし、誰かが決めたこと。

全ての自分の思い込みを疑い、本質を。

 

「言葉ってなんだろう」

今年はこれを考えていきます。