ビール、チェコ語、ポーランド語

A record of my love for beer and languages

学生の時に、英語が嫌いだった本当の理由。

学生時代の英語の授業も。

今のほとんどの言語学習アプリも。

共通している事が一個だけあります。

それは、正解と不正解の嵐。

 

言語を勉強するのは好きなのに、何かモヤモヤした感覚があったのですが、その理由は多分正解を求めることへの嫌悪だと思います。

 

なぜかこの世界は、正解とか正義とか善とかにやたらと注目しますが、お互いが自分たちの正義を掲げても、戦いになって悲しむ人たちがいたら、その正義は悲しみを産みます。同じように、言語が好きなのに、途中で投げ出す人たちが多いのは、正解を求める言語学習の古さではないかなと思います。いろんな方法論が、正義だとして。その正義が頭の中でぶつかり合って、自分の中で学ぶことをつまらないと思ってしまうとしたらとても残念だなと思うわけです。

 

確かに、正解がわからないと先に進めない。かもしれません。

でも。単語を覚えられないのには、ちゃんと理由があり、その理由を知らなければずっと苦痛のような単語記憶のルーティーンにハマってしまうのです。

 

単語を覚えるのはしなくていいって、私自身思っているのは、単語を覚えても会話に直結していないと思っているのと、単に苦痛だからです。覚えていない自分が嫌ですし。だからと言って、覚えたから話せるとは限らない。

 

英語も、チェコ語も、ただひたすらフレーズとか単語を覚えました。

加えて、スピーキングトレーニングとかリーディングも。

多分、単語単体での理解では、そこそこ。数値化するなら5000単語くらいは知っているはずです。しかしながら話せないのは、そこに何かが隠れているような気がします。

 

例えば。

「始める」を意味する単語を知っているとします。

でもそれは、日本語で国語辞典を読んでいるようなもので、それを知ったからといってその単語の使い方を知らなければ意味がありません。

 

これまでの参考書や、アプリでは、簡単な単語や簡単な文法から学ぶスタイルがほとんどです。でも、単語同士のつながりについてはあまり重要視されていない。なぜなんでしょ。

 

単語同士は、密接度みたいのがあって。それを連鎖で覚えると頭に入ってくるスムーズさが違うのですが、それに焦点を当てているアプリや参考書がないわけです。なぜか、フルーツとか家の単語で、括られている。

 

昼食と、夕食の単語はセットでよく出てきます。それをひたすら覚えるのではなく。

「夕食」に近い単語は、「食べる」とか、「友達」とか「レストラン」であり、一緒によく使う単語を優先で“使える“ようになった方がいいのではと。ここで「覚える」と言わないのは、「覚える」と「使える」は、全然違うからです。

 

そういう単語同士の密接ランクで、覚える単語やフレーズを括ったらいいのにと思うわけです。でも。今は、単語を覚えているかどうかの正誤の渦に巻き込まれています。

 

覚えてますか?復習しましょう! って嫌な学生の記憶を思い切り引き出します。

 

学生当時、テストでいい点数を取るために覚えると行為が、本当に嫌いで。

今も、間違いの量産アプリと復習してくださいアプリが多いことに辟易していて。

学習アプリは多いけど、これでは多分10年経っても、言語を話せる人の人口は増えない気がします。最近流行りの、GPTの流れも表面上の話。いっぱい話をしたから話せるわけではない気がします。

 

最近、体に染み込ませるフレーズは10個くらいでいいような気がしてて。

 

あと。時間がかかるのは必然だけど、時間がかかると思い込んでいるような気がしていて。

もしかしたら、何か見落としているような気がする今日この頃です。

 

多分、年始からポーランド旅行までの3ヶ月にまた変化が来そうな予感。

そしてそれは、単体の言語学習ではなく、言語を学ぶという全て行動に活用できる気がします。

 

なぜ、私たち日本人は日本語を話せるようになったのか。

私たち日本人がある程度日本語を話せるようになった後に、改めて単語を覚えないのは、なぜか。

なぜ、母国語以外の言語学習は、単語や文法がメインなのか。

 

なぜ私は、ポーランド語の「trochę mowię po polsku」をみて、その意味が分かるのだろうか。てか分かるってなんだろうか。

 

もはや、哲学ですw

 

でも多分、多言語話者は答えを知っているはず。

 

「それ、イタリア語でなんて言うの?」と、イタリア語の言い方を知っているけど、イタリア語ペラペラではない領域の今だからこそ分かる事があるような。