ある本を読んでいたら
5000年前の洞窟に、「最近の若いものは…」
という記載があったとのこと。
つまり、人間は5000年経ってもそんなに変化はないということ。
ではなく。
この世界の真実は、「繰り返し」じゃないかと思っているこの頃です。
言語の学習で一番つまらないと思っていた、復習。
新しい単語をたくさん知ること、こそ、言語学習の醍醐味だと思っていた私。
でも本質は、繰り返しなのだと再認識しているところです。
毎日のルーティンも
季節の移り変わりも
ブラックフライデーも
全ては、繰り返しでした。
昔読んでいた本とか、聴いていた曲が巡る。
としを重ねるごとに、その巡りが増えていくことは楽しいことだなと最近思います。
自分の人生も折り返し(通常の人生であれば)なのかなと哀愁を漂わせるつもりはないのですが、最近また「ストア派哲学」にのめり込んでます。
有名どころだと、マルクス・アウレリウス皇帝の「自省録」とか
神谷さんの翻訳は、お世辞抜きで神。
セネカの「人生の短さについて」とか
ストア派は、実在主義というか実践哲学だと個人的には思っていて、カントなどの理論武装とは違う気がしています。
それが存在していることが、それが実在であることの証明である。
みたいな。
混沌とした時代に哲学思考は元気が出てくるのですが、過去も今も、混沌ですから。
片方では、戦争とか捕虜の解放。
片方では、アイドル争奪戦。
片方では、リールでおすすめグルメ。
時代は巡る。
ストア派は、人間にフォーカスしているので
最大の復習は、怒りを覚えた人に優しくあることだ。とか
誰かの人生を追いかけるのはやめて、自分の人生を本気で生きろ。とか
を語ります。
10代に読んだ、セネカの「自分のスタンスで人生は短くも長くもなる」って相当衝撃だったのを今でも思い出します。吉田松陰の、死生観のような。
時に、現代も昔も、人を羨む人間性は変わっていないという安堵感のような悲しさのようなものを覚えたりしますが。
ということで、今日の話は繰り返しについて。
繰り返しって、私的に一番嫌いです。
でも、繰り返しを好きになったら、多分言語は半分マスターしたものと同じです。
幼児は繰り返しと思っていなくて。
何度失敗しても、同じことを繰り返します。
大人は、繰り返しているうちに思考回路が最善を探そうとします。
そして単に繰り返すことがどれだけ無駄であるのかを自分に示そうとします。
でも、本質は、繰り返しにあり、繰り返すことで、なんとも言えない境地を味わえます。
あるセンテンスを見て、声に出し。
また声に出し。を繰り返すと、自我は「もう知っているよそれ」
と思うのですが、次に出てきた時に、思い出せない。
知っていると、定着の乖離(離れていること)です。
ところが、繰り返すことで、「知っている」の次のステップである、「身についている」に変えることができ、この身に付いている状態が多いと、その言語の入り口がようやく見えます。
考えるのではなく、反射できる世界観。
で、結局何がしたいの?
という日本語の構造を見たときに
脳内で、英語とかポーランド語でも勝手に作っている状態を経験すると。まだペラペラでもないのに、幸せホルモンかアドレナリンか、それ以外の何かが脳内から放出されるのを感じることができるわけです。
Co to znacy?
このポーランド語が
日本語を介さずに頭からスッと出てきた時。
外国語ってそんなに難しくない。
と思えます。ほんとです。
まだ、全然わからないポーランド語ですが
自分の思い通りにはならないのが言語学習ですから、気長に言語の神様の思い通りに毎日淡々とトレーニングを繰り返したいと思います。
来年の11月の記録が楽しみ。