|Od roku 2019|
チェコ語学習|796日|2年2ヶ月と4日
ヒアリング時間|1464時間
今日は、ターニングポイント。
久々にきた。
しかも、これまでの言語についての新しい視点ではなくて、完全に一段違うところからきたターニングポイント。
これまではチェコ語の音声が、今までよりもより聴こえるようになった。
とか
英語の歌詞で…
のように言語に関するスキルについてのターニングポイント。
でも今回は、なんというか。
言語の根本みたいなところの気づきがあったので記録しとく。
まずもって、ほとんどの言語は人と人をつなげるコミュニケーションとしての道具だ。
だから頭の中に何かしらの抽象的概念が存在する。
自分の思いを伝えること。
これが根幹にある。だから、この意味はなんですかと言う言語的な習得は、二次的なものだと感じていた。
こんにちは、って日本語で言う場面で、違う言語を話したら、日本人とのコミュニケーションはエラーが起こるから。日本人的な考え方を持ったまま、チェコ語とか英語とかイタリア語を学んでもずっと日本人が新しい言語を身につけるというスタンスは変わらない。
でも、もっと深いところの言語についての考察を始めると、単語を選びその国の構造に合わせて配置して、自分の言いたことを相手に伝えることは、誇張して言うならもう一つの人格を手にするようなものである。言語を学ぶと、新しい視点が身につくって誰かが言っていたけれど、視点どころか、思考回路をもう一つ実装するようなものだ。
私はこのように考えると言うのは、日本語的な思考回路であって、外国の人は、私はこのように考える。と思考するより、私は思う、なぜなら。の思考回路が存在する。
けれども、言語を学んでいると、日本語が母国語であるから、母国語をベースに多言語を学びたくなる。そのわけは、日本語の理解手順のまま外国語を理解する必要があると思い込んでいるからだ。
日本語とチェコ語、英語、イタリア語は、言語が違うのは当たり前の話で。
と言うことは思考回路が全く日本人とはちがう。
だから、私もそう思うと思った時に
英語なら、me tooになるし
イタリア語なら、anch'io
なので、この単語を日本語の「私も」に当てはめること自体が、何か違うわけだ。
どうして
me too なのだろう。
どうして
anch'io なのだろう。
この単語を使ってコミュニケーションをすると言うことの本当の意味。
これを知りたいと、今日思った。
これ、言語学って分野なのだと思う。
となると、言語の起源みたいな部分に足を突っ込まなければならないわけで。。。
三年目の変化。
我ながら思う。自分はどこの領域に行くのだろうか。