|Od roku 2019|--- --- --- --- --- |
§ チェコ語学習|586日|1年7ヶ月と8日
§ ヒアリング時間|1142時間
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本日のビール
コロナがどうのとか全く興味がないけれど、ビールが外で飲めないのが許せない。感情論。
今回飲んだのは、イタリアのプレミアムビール「ペローニ」
家族から、自分の住む地域の外出禁酒法が解禁されたと聞いたので、1人ビアバーに出かけて注文。
一口飲んで、コーヒーの焙煎感。
今まで飲んだどのビールにも似ていない面白い味。
スッキリしていて、喉越しビールだけど、味わい深いビール。
どの国のビールも基本的には全部美味しい。
意外と、忘れられないビールって少ないけれど、このビールは忘れらないかもしれない。
世界は広い。
将来ビールを飲む世界旅行でもするかな。
その前に、言語マスターになりたいけれど。
多重人格
今日、電車に乗っていてそんなことを思った。
例えば、「わたし」という日本語は、自分のことを表す単語だけど、自分のことを説明する単語が「わたし」であるのは日本だけで、今たくさんの言語トレーニングをしているから、自分を表す言い方は無数にあることを知っている。だから、<自分=わたし>と考えられない。
自分という概念を表現する単語が、日本語の場合は「わたし」である。
というなんとも不思議な感覚に囚われている。
マスター(ネイティブレベル)している言語があるわけではないけれど、なんとなくその国の言葉を口に出したり耳にしたりすると、完全に脳が切り替わるのがわかる。
イタリア語を話すときは、なぜか手振り身振りが多くなる。
なんでだろう。
チェコ語を話すときは姿勢が少し前のめりになる。
なんでだろう。
その国の言語体系で物事を考えるのはもう少し先の話になると思われるけれど、各言語を聞いた時の耳のスイッチが切り替わっているのはなんとなく分かるようになってきた。
そして、直前まで勉強していた言語の切り替えが日本語に切り替わらないと、なぜか饒舌になったり物静かになったりする。
多重人格というと言い過ぎかもしれない。
けれども、日本人であるアイデンティティが崩壊しているのは間違いない。
外国語は、物事をきちんと説明しなければならない言語が多い。だから、日本語で「その辺」とか「北の方に」とか曖昧な表現には必ずツッコミを入れる。「スーパーの道の北側」って母親に言われて、スーパーの隣接した道路は二つあるけれど、どれ?」とか「北がわからない場合はどうすればいい?」と聞き返している自分を認識した時に、なんて面倒な人間なんだ。と自分で思う反面、日本語がいい加減な言語であることを再認識する。もちろん良いとか悪いの意味で「いい加減」と使ったわけではない。
コミュニケーションとは便利なようで面倒だ。
これは言語を学べば学ぶほど、痛感する。
本来は、目で見たものを表現する必要はない。
共感したり、伝えたり、伝えてもらったりするためにものすごく便利な道具ではあるけれど、決して言葉によるコミュニケーションが真実に基づいているとは思えない。
富士山の頂上で見た太陽の光は、どれだけの表現を駆使したとしても、見た瞬間の眼の感覚を伝えているわけではないし、自分が感じた感動を全部伝えることはできない。
これがコミュニケーションの臨界点かもしれない。だから、言葉で伝えられる表現や事実は、本当の事実とイコールではないと最近強く感じる。
「暑いですね?」
と言われて自分が暑くなくても、<わたしは、暑いとは思わないけれど、あなたが暑いと思っていることには同意できる>という意味で「そうですね」と言える。これは嘘ではない。わたしは暑いと思っていないと、言っていないからだ。でも、相手はわたしが、「そうですね」と言ったことで、わたしも暑いと思っていると同意されたと感じる。
暑いかどうかは、体感だから真実ではない。
正確性を持たせる表現は、「今日は26度です」
言葉によるコミュニケーションが曖昧だということは、各国の言語も、完璧ではないということ。
だから、言語を学ぶということは、ある事象を説明するための表現方法を学ぶということに近い。言葉を話せるからといって、その国の人たちの文化を完璧に認識することはできないけれど、その国の人たちとコミュニケーションを取ることが可能になる。
コミュニケーション手段としての言語と考えると、各国の言語を学ぶことで、多重人格者のように、並列に、その国の言葉を知っている「わたし」が横並びになる。
わたしはここに行きたい。と思った瞬間に、10個の言語でその表現方法が頭に浮かび、その中からどの表現を使うかを選択するようになる。
言語ってマジで面白い。
そのうち、鳥の鳴き声で、鳥の感情がわかったりして。
まさかね。