最近、ふと思うことがあります。
言語を理解するということは、体感と情報が乖離しているのではないか。
私が想像する、言葉が理解できる状態とはどういう状態なのか。
単語を覚えることなのだろうか。
色々と考えていると、言語学習の基本的な願望を忘れてしまいそうです。
ポッドキャストを聞いていて思うことは、学んだ単語があまり出てこない現実です。
そこで考えました。
チェコの人たちが日常で使っている言葉は、学習用と違うのではないか。
単語を覚えても、言語を理解することに直結しないのではないか。
おそらく、言語を理解することは、私たちが想像する世界とは違うのだと思います。
単語(語彙)を増やせば理解できると言う話ではなく、もっと根本的な何かを解決しなければならないのではないかと思うわけです。
武器を手にしてもその使い方がわからなければものにならないように、単語を増やしても日常会話を難なくこなす目標のもとでは、単語の使い方を知らなければ意味がないのではないかと思ったわけです。
じゃあどうする?
ここがわかったら、教育者です。
私は、素人なので手探りで言語学習を進める必要があります。
チェコ語のポッドキャストを聞いていて感じたことは、チェコ語を理解すると言うことは、意味を見つけることではなく、単語の使い方を学び、その使い方をマスターしている状態を指すのではないかということ。つまり、単語をどれだけ頭に詰め込むかよりも、会話の定型を増やすことの方が先ではないかということです。
チェコ語のポッドキャストを聞いていると、タクジェ(tak že)とかアレ(ale)とかが頻繁に出てきます。
クテレー(které)も頻繁に出てきます。
会話の繋ぎや、始まりの言葉。そして、会話の公式があって次に単語ではないかと。
とにかく、今は耳を鍛えることで、世界がどうなるのかを調べる段階なので、ここまで生まれ疑問はのちに取っておくことにします。