前回のターニングポイント以降、言語学習に対する考え方がガラッと変わってしまいました。
まず、言語学習をするために何をしたらいいのかといろんなことを調べたことが間違いだったと気付くのに4年もかかるなんて。いや、4年で気付けたのでよしとしましょうか。
そもそも。
第二言語学習論を信じることがナンセンスでした。
何が正解なのかを知りたいのは人間の本能かもしれませんが、この世界に正解ってほとんどないと思うんです。間違いとか正解とかを考えるからなんだかややこしくなる。
自分のやり方が効率的で最短最速であるのか、そうではないのかなんてどうでもいいと思うんです。3日でインドネシア語をマスターしないと家族が亡くなってしまうとか、そういう緊急事態が進行しているわけでありませんし。
当時、なんで誰も中間ポイントのことを書かないのだろう。
初心者かペラペラしかいないのはなぜ? って思っていたのですが。
今ならわかります。この状態を説明することができないから。
ある程度理解して、話せるようになる前は、言語がわからないと自分を判断してしまいます。
でも、少しずつ自分が学習している言語のことがわかるようになって。あれ? 結構わかるのかも? って分かったとしても、まだ分からないことが多いから自分がどのレベルなのか判断することが難しい。言語のアキレス腱は多分そこ。
言語のレベルは、数学の数式のように答えを導き出すことが難しいです。
例えば、今の私のレベル。
日本語化すれば、英語やポーランド語を見て、日本語に翻訳しなくなった。
です。
多分、学習初期の私だったら、それってどういうこと? ってなるわけです。
でも、それ以外に言い方がないのです。
英語でも、ポーランド語でも。
相手が、何を言っているのかがわからないのは、語彙力です。間違いなく単語の意味がわからないから。だから語彙力が大切なのですが、単語だけたくさん知っていても文章の作り方がわからないとダメなのです。
ところが。言語に馴染むと、そんなことがどうでも良くなるんです。
日本語の
“ちょっとは、楽になるかもしれない“
を見た時に、単語の意味を何一つ必要としていないのは、瞬間でイメージしているからです。
そこで仮説を立てました。
言語(母語を含む)って表現の幅を広げることを無意識にやっているのではないかなと、
方言と標準語の違いのように。
方言を聞いて、標準語に変換して理解しているわけではないのがヒント。
ここにいたいと?(福岡系の方言)
これを、日本語を学習している外国人に伝えると。
“あなたはここにいることを望んでいますか?“
という言い方をすることでしょう。
言語は説明なので。
例えば自分が、博多駅から福岡空港に行きたい場合にだけ、その単語が必要なわけです。
でも何かをしたい。どこかに行きたいというフレーズが自分の使えるフレーズとして浸透していると、いちいち単語を調べたり翻訳を使ったりせずに、言えるわけです。
外国人のパートナーを作ると、言語の習得が早くなると、言われているのは。相手に伝えたいことや、聞きたいことが発生するから、そのフレーズを覚えていたらいつの間にか、使えるようになったということで、それは外国人のパートナーが言語学習の向上に必須なわけではないと思います。
言語を習得するために必要な〇〇があるとすれば。
たぶん、“時間“です
言語は、時間をかけたら絶対にその結果が現れます。
って、それは他のことも一緒なのかも。
自分の人生は、自分が時間を費やした時間の結果なんだという事実を感じて、肩の荷がおりた感覚です。