|Od roku 2019|
チェコ語学習|885日|2年5ヶ月と3日
ヒアリング時間|1558時間
チェコ語をはじめとする、ヨーロッパの言語の乾杯は、健康に関する単語が使われていることが多い。それは体のためというよりかは、お酒による気持ちの高揚が、精神衛生上いいという意味合いではないかなと思う。
日本では、乾杯は、乾きを満たすという漢字が使われていることや、お酒を場面ごとに分けていることからも、お酒を介して相手や場面、そして自分を含む意味合いがある。
お酒に対する考え方や相手との関係が違うことがわかる。
外国は基本的に個人主義がメインで、日本は集団思考が強いからこの文化の違いが言語にも表れている。というより、言語が思考を左右するとしたら言語優先かな。言語のおかげでその国の国民性が変わっているということも考えられる。
外国には、実在・実用主義という考え方があって、それは本質的・普遍的なものとは違い、実際に目の前に存在する現実をベースに物事を捉える思想。
実際にあることや存在することは言葉の前に存在しているもので、言葉がそのものの存在を証明しているわけではない。言葉によって私たちは目の前に存在しているものの認識を深めることができる。
言語のトレーニングを何年かしてこうなりましたという人の情報は、私にとって実在ではなく、実際に自分が数年行って得られる経験とは全然違う話ですということ。
熱いヤカン。この言葉でイメージができる私たちは、一度くらいは熱いヤカンに実際に触ったことがある。小さい子どもは、熱いヤカンという言葉だけ知っていたとしても実際を知っているわけではない。
言語のトレーニングをしていると、この感覚がすごく共感できる。言語のトレーニングをしていますと人に説明するとき、実際に私が毎日行っている行動を説明しているものの、その実際を説明しているわけではない。なので、私が毎日していることの本質は、本来説明することができないはずである。
この違いが、本質主義と実在主義の違い。どのようにすれば言語堪能になるかという情報は、どちらかといえば、本質主義だと感じていて、毎日言語に触れることで得られる体感や日々の成長は、実在であるため正確に説明はできない。
それでも説明しようと試みるのは、言語化することで自分で納得したいと思っているからだろうか。
そして、このように言語のことについて深く考察すると、なぜか言語の理解力が深まる謎がある。一体の大人の脳はどのようになっているのだろうか。幼子のように、感覚理解で言語を蓄積するよりも知識理解を混ぜていった方がいいのだろうか。
とりあえずよくわからなくなってくるので、この辺りでビールを飲もう。