|Od roku 2019|
チェコ語学習|849日|2年3ヶ月26日
ヒアリング時間|1518時間
数日前に書いた、限定醸造のエビスプレミアムホワイト。
昨日行ったお店には置いてなかったので、今日は別のお店に。
そこにはずらりと並べてあって、そこの仕入担当者の匙加減で店内に並ぶビールの影響力が違うことを知った。昨日行った店は、リニューアルしたスーパードライ一択だったな。
さらっと黒ラベルもリニューアルしているのだけどそれはほとんどの人は知らないのでは。
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今日は、表題の通りコミュニケーション能力について。
コミュニケーション能力が高い人がすごくて、低い人は…みたいな風潮がこの世界のなんとなくな共通認識である。私はそうは思わない。確かに、コミュニケーション能力が高いとビジネスでもうまくいく可能性は高くなるだろう。
しかし、それがもし、嘘の発言をずっとしながら作られたコミュニティ上のなんとなくのつながりだとしたらどうだろうか。本当の人間関係をその人は作ったと言えるのだろうか。
私が、「私はそうは思わない」と言い切る自信はここにある。
本当のコミュニケーションは、自分の中の嘘偽りのない関係性のことを指すため、それが自分自身であろうと友人関係であろうと、嘘で塗り固められたコミュニケーションに凄さは不要なのだ。けれども、誰とでも仲良くなる能力がこの世界ではやたらと崇められている。
それは日本人からしたら喉から手が出るほどに欲しいスキルかもしれない。
だが、外国人は、それが普通なのだ。
それが日本と世界の決定的な違い。
日本は島国である。陸続きではないからある意味守られている。逆を言えば、孤立している。
たくさんの文化が流動する中で作られた国家ではない。
島国という意味では、UKもそうだけど、あちらの国は、島の中でたくさんの国と人種がせめぎ合いをしているから、ある意味異文化コミュニケーションがある。
純粋に単一民族日本人という人種だけで形成されて島国で生きているのは日本くらいだろう。今の先進国の中では。
片方の視点では素晴らしいことだ。
でも、もう片方の視点からすると広がりがない。
村八分という言葉が存在するのも日本特有の文化ではないだろうか。
外国では自分を確立していないと飲み込まれる。
けれど、日本では私たちのポジションを確立していないと飲み込まれる。
個と全体性の文化の違いだろう。
だから、日本では、コミュニケーション能力が高い人のことを重宝する。
重宝するというかビジネス界隈では重宝される。ことが多い。
人に気に入られるのは、能力だ。能力でなんとでもなる。しかし多くの人に気にいられることがなくても、自分が本当に大切にしている間柄で自分の人生の人間関係を構築した人もいる。
果たしてどちらが本当の意味で、幸福だろうか。
私は、外国語のトレーニングを継続していく中で、合わない日本人がどんどん増えていることを実感している。これっていいことなのか悪いことなのかを今この瞬間にジャッジすることが難しい案件である。
これについてはまたいずれ。