ビール、チェコ語、ポーランド語

A record of my love for beer and languages

obtížné téma / difficult topic

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|Od roku 2019|

チェコ語学習|838日|2年3ヶ月15日

ヒアリング時間|1507時間

 

最近の世界情勢について、過去と何かが違うなと直観的には理解しているものの、一体何がどのように違うのかを言語化できていないことに気づいたので、そのことについてくるくると頭を回転させるように思考してみた。

 

今の私の言語レベルは各国で微妙に違いがある。

 

ほとんどの言語をトレーニングしている途中なので、どれもどんぐりの背比べくらいの僅差しかないけれど、例えば、あなたの名前はなんですか? って自分が目の前にいる人から情報を引き出すためには、イタリア人の場合は、イタリア語で伝えなければならない。ものすごく当たり前のことだけど、この本質が言語の本質なのだと思う。

 

一番最初に書いたけれど、一体世界では何が起こっているのだろうかと思考して、それを言葉にできない場合、もともと形がないものであったり知りたい情報について曖昧だったりすると、言葉が急に意味をなさなくなる。母国語の日本語ですら説明できない状況が生まれたりする。

 

じゃあなんで言葉があるのだろうかと考えていくと、やはりそれは固定化なのだと思う。

固定化のために私たちは言葉を使ったり、数字を使ってその行為を試みる。

 

この人の名前を知りたいと思うことは、本来は言葉として存在してない。

枝分かれした先に、言語が存在する。

チェコ人なら、チェコ語を使って。

イギリス人なら、ブリティッシュイングリッシュを使って。

というように。

 

思考の先に、言葉があるけれど、思考自体は日本語で考えているんじゃないか?

ってずっと思っていたけれど。富士山のご来光をみた瞬間の私たちは、日本語でも英語でもない、感覚を抱く。

 

そして、綺麗とかbeautifulという言葉を当てはめ、固定化するのだ。

固定化はネガティブな意味合いではなくて、何方かといえばポジティブな感覚。

それが美しいものであると誰かに説明できるようになるから。

 

って考えると、感覚自体は日本語ではないわけで、単純に最も使っている日本語を当てはめる能力が高いというだけ。それはよく使っている言語だから、言葉を超えたことを理解しているとも言える。となると、言葉を超えた理解という時点で言語の枠を超えているような気がするわけ。

 

We have to go now.

 

このフレーズをみたら、この英語だけで理解できるようになってきたのも、少しずつだけど英語の枠を超えつつあるのかもしれないと仮定できる。あの難解言語のチェコ語でも、チェコ語のやりとりを聞いて、細かな単語を知らないのに、言っている内容がなんとなくわかるようになる。

 

脳が、次のステージに行ったのだろう。

 

脳は本当に使えば使うほど、どんどんレベルが上がっていく。まだペラペラなわけじゃ無いけれど、学習している各国の言語を聴いたときに、それがチェコ語だ、英語だ、イタリア語だ、って意識的に切り替える必要がなくなってきた。

 

Photoshopやったことのある人ならわかると思うけれど、Photoshopにはレイヤー機能があって、一枚の写真に見えても、多くのレイヤーで構成されて、それぞれのレイヤーをいじることで全体が変化したように感じさせることができる。一個のレイヤーだけを表示することができるけれど、多言語を学ぶとそんな感覚になる。それが自分の中で言語切り替えをする時の具体的な動き。極論をいうと、全言語は本質的には同じものだ。耳に覚えのない方言のようなものだ。

 

言語ってめっちゃ面白い。