チェコ語と、ビール。

A record of my love for beer and languages

Můžete dál dělat to, co vás baví

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|Od roku 2019|

チェコ語学習|802日|2年2ヶ月と10日

ヒアリング時間|1471時間

 

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どうでもいいことを言いたい。

今日は、2と0だけの日。

2022.02.02

0が3個、2が5個、全部の数字は8個。

縁起がいいぜ。

以上

***

 

昨日、馴染みの居酒屋で言語について語るタイミングがあった。

もちろん。ビールについてのトークがセットになっているけれども。

 

そこででた話。

言語学ぶの好きだからそれだけ続けられているんでしょ?

厳密に言うと、言語を学ぶのはそんなに好きじゃない。楽しいのは確かだけど、それと好きとは一致しないのだ。

 

そこで思った、才能があるわけでも、好きなわけでもないのに続けることの意味。

しなければならない強制や義務でもない。

 

書くと拍子抜けするけれど…

才能がなくても、好きじゃなくても継続するためには、第三の領域が存在する。

ちゃんと。

 

それは

 

“するのが当たり前“

 

例えば。

 

呼吸。

呼吸の才能、あるっちゃあるかもしれないけれど。

特別な才能は不要、好きかどうかなんて関係ない。

呼吸しなければ死ぬし、するのが当たり前のこと。

 

特に意識せずともちゃんと息をする私たちは、その行為があまりにも当たり前すぎてそのこと自体にフォーカスすることが少ない。

 

次に、ご飯を食べること。

どこで食べるのかについての選択肢はあるけれど、食べるか食べないかの選択をする人は少ない。

 

このように、私たちの人生を取り囲むさまざまな、することが当たり前のこと。

もっと他にもたくさんあるけれど、その中に、母国語がある。

母国語は、才能不要、好きかどうかも関係ない。

日本人の私たちが日本語を話すのは当たり前すぎて話せるのだろうかと疑問を抱く必要はない。

 

それなのに、なぜ、私たちは他の言語については、“才能“とか“効率的な“という言葉を持ってくるのだろう。

 

もっと違う言い方をしよう。

 

前にも書いたけれど、私たちに言語の能力があるのは間違いない。これは才能ではなく、持って生まれた能力だと思う。イタリアに生まれてりゃ、イタリア語を話しているだろうし、チェコに生まれたらチェコ語を話しているわけだ。活用がー! とか騒ぐのは学生時代くらいだろう。活用は日本だってある。

 

だから。

 

周りの人に、才能あるね。好きなんだね。って言われたら心の中ではそうじゃないと思ってしまう。話せるようになりたい。と言うのも若干違う。

 

私は、無意識に、“絶対話せるはず“と思っている。

 

だからトレーニングしている。とんちみたいな掛け合いになるけれど、話せるようになるまで続けたら絶対話せるようになるわけだ。時間は有限であることが辛いところだが。

 

***

 

そしてここ数日、ブツブツ呟くトレーニングの効果が出てきた。

 

これは英語で体感したことだけど、なんとなく単語の配置がわかるようになってきた。

 

口の筋肉が形成されてきたのだろうか。口の筋肉が英語バージョンになったら、耳と脳が同時にアップデートするとでも言うのか。そんな不思議体感はこれまでもたくさんしてきたけれど、今、脳内で英語を組み立てているような気がするのだ。

 

だから、英語のフレーズを見たときに、口の中と脳内で同時に理解しようとしている。ポイントは、口と脳は別に働いているような気がすること。おそらく言語に使っている器官は、連動していることに加えて、それぞれのスキル度が独立に存在していると思う。そして連動スキルがもう一個別に存在している。

 

あー、絵心ないけれど、図で描きたい。

で、いつものことだけど、英語のスキルがポンと上がると、他の学習言語も一段上がるのだ。

 

このシステム、永遠に謎。