|Od roku 2019|
チェコ語学習|792日|2年2ヶ月
ヒアリング時間|1460時間
常に自問していること。
それは、自分の中にある思い込みがないだろうかと。
思い込みを捨てなければ新しい知見は得られないと思っていることも、なんとなく思い込みのような気がするし。長期間の学習を経て初めて言語をマスターできると思っているのも、思い込みのような気もする。
思い込みを解除できたら、覚醒することがたくさんある中で、自分を縛り付けている思い込みはないだろうかと常に考えているのだけれど、思い込みがあるから縛られていると考えること自体もなんとなく思い込みのような気がしてくる今日この頃。
世界観が哲学的で困る。
言語をマスターすることに、なんとなく近道があるような気がしてきているのも最近の変化。
時間をかけなければならないとずっと思い込んでいるから、時間をかけずにマスターすることは天才のなせる技だと思っているのも、多分思い込み。
なぜ最近そんなことを考えているのかというと。
英語とイタリア語を、完全に日本語変換しなくなったから。
イタリア語の学習を英語の翻訳で最近行なっていて、その中に日本語訳が一切出てこないことから、自分の中で違和感が噴出している。悪い意味の違和感ではなくて、そもそも言語ってなんだろうかという根本の問いに向かっている。気がする。
言語は難しいというのがそもそも思い込みかもしれない。なぜかというと、そういう情報をたくさん目にしたり耳にしているから。自分の周りの日本語だけしか話せない人たちの言い分を聞いて、なるほどねと納得している時点でなんだか変な気がする。
本当は、多言語話者の言い分を聞いたほうがいいと思われる。
自分の知り合いには多言語話者がいない。せいぜい二か国語。
本当の多言語話者の世界観を知りたいと思っているけれど、どうすればいいのだろうか。
簡単な挨拶とか、お店での簡単な注文とかは、チェコ語、英語、イタリア語、フランス語がわかるけれど、それをカウントしていいなら、私はすでに日本語を含めて、5ヶ国語わかりますって言える。でも今のレベルで、話せますとはとても言い難い。
前にも書いたけれど、この微妙な踊り場感覚が自分の中の違和感そのもの。
さて。
このさき、自分の中の感覚がどう変化する?