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|Od roku 2019|
§ チェコ語学習|709日|1年11ヶ月と09日
§ ヒアリング時間|1384時間
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成功した人生と、失敗の人生。
終末と始原。
口述と記述。
この世界にはニ極の考え方が充満している。
善と悪もそう。
言語の学習も、ヒアリングがいいのか、スピーキングがいいのか。というように、大体どっちがいいのかという議論が生まれる。
人はどちらかが良いと思いたいので、どちらかの方法や、何かについて、それが自分の信じているものと一致させて満足したがる傾向にある。
しかし、ほとんどの真実がそうであるように、二つに分かれた極は、たいていが同じものである。
究極に絶望したところで、死を選ばない限りは生の中にある一つの状態である。
幸福を感じたとしても、生きている限りは、広意味では絶望を感じているのと同じことだ。
人は成功したがる。
しかし、絶望を避けたがる。
人生というゲームで負けたくないと感じて生きている。
何事も成功を基準に考える。
しかし本当にそうだろうか。
何度も書いているけれど、言語学習における成功は、たった一つだけ。
それは継続すること。
あらゆる広告が、継続を避けようと仕向ける。効率的に一気に言語を学び、習得できる方法があるかのように伝えてくる。どのような方法がもっとも効果的なのか、そのことについて研究している機関があるほどである。
けれども、効率的な方法をどれだけ自分の中に構築したとしても、継続の中にしか答えがないことを知らなければ、ほとんどの幸福論と同じように脳内ストレージを圧迫するガラクタになる。
本当に言語を習得したいと思うなら、ひたすら継続するしかない。
継続すれば脳は答えてくれる。
哲学的な思考をするなら、言語を習得することと、言語を習得しないことは実は同じ状態であり、唯一違いを見出すとすれば、言語未習得の状態から、言語を習得している状態に変化しているプロセスの中にだけ存在する。それは、動きと時間軸。
あるところから、あるところに変化することは、今世の物理学では運動と呼ばれている。
この変化する状態には、膨大なエネルギーの変化が伴うので、人間はそこで生きていることを実感する。
ほとんどの人が、緩い延命装置の中で生きているように私が感じるのは、考えているようで本当の意味で考えていない人が多いからだ。
垂れ流される情報の中で、自分の夢や期待を構成するものの、自分が本当にしたいことや心の底から幸福を感じる行動に時間を充てようとしない。
究極の絶望を経験した人は、究極の幸福を経験したのと同じ脳内のプロセスを体験する。
これは、言語の体感で得た私の知己である。
毎日の継続的な言語トレーニングがどのタイミングで結果に繋がるのかは、自分でもわからない。しかし積み重ねられた言語トレーニングの時間が全てある意味すでに結果であり、体感という結果に変化する瞬間だけがわからない。と表現することもできそうだ。
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口述と記述。
相反することの意味について思考しているのは、言語には口述と記述という似たようで全く違う理屈が存在しているような気がしているからだ。
ヒアリングとスピーキングが、言語トレーニングという括りのもと同一のものとして扱われているのも原因がありそうだ。
しかし、口述と記述は全く違う。
異国の言語には、書き言葉と話し言葉が明確に分かれているものもあるくらいだ。
それくらい別物である。
ある程度のところで、融合し、言語力として統一されるまでは全く別のものだと思った方がいい。
スポーツに例えると、バスケットボールとバレーの練習をしていたら、スポーツ体型になるようなものだろうか。
それなのに、どっちがいいのかという議論がこの二百年くらいずっと続いているのはなぜだろうか。
まあ、とりあえず今は言語トレーニングがsuper楽しいターンに入ったので、このまま継続していこう。言語トレーニングをしないと気持ち悪すぎる。