本日のビールは、東京ブロンドと東京ホワイト。
たまたま入ったコンビニで発見。
このような偶然は一気にテンションを上げてくれる。
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|Od roku 2019|
§ ヒアリング時間|1220時間
昨日書いた記録で、最後に「ターニングポイント」と書いた。
その感覚は正解だった。
このタイミングで精聴のウェイトをあげるべきというサイン。
流し聞きは、耳をチェコ語に対応させるための基礎トレーニングのようなものなので、時間が許す限りずっと耳に流し続ける。精聴は、チェコ語を自分のものにするために必要なトレーニングだけど、異常に疲労するからずっと続けることはできない。脳がクラッシュしている感がわかる。
それでも、チェコ語の字幕を追いながら、聞こえてくる音と一致させたり、時折話している口元をみたりすると、|理解できる/理解できない|という二元を超えたある感覚に触れることができる。
表現が適切ではないかもしれないが、ピアノの音楽を聞いて理解できないとは思わない。それと同じ。
最近、バンドの演奏を聴きながら、ベースラインを追いかけたり、ギターのリフを追いかけたりすることができるようになったのも偶然じゃないと思う。音楽全体をまとめて聴くこともできるし、スイッチを切り替えると、特定の楽器のみに集中することも可能になった。オーケストラも同じ。だから今まで聴いていた音楽が違う音楽に聞こえるようになったと感じるのかもしれない。
言語も同じで、日本語を聞いているときは、日本語の音に反応していて、英語に切り替わったら英語の音に反応している。チェコ語も同様だ。この場合、耳に入る音と理解は全く別のものである。
日本語を理解できているからという理由だけで、他の言語も理解しようとすること自体が間違っていることに気づくことができた。だから精聴のウェイトを多くする必要があると仮定した。
厳密に言えば、日本語だって相互理解の上に、コミュニケーションが成り立っているわけではない。
「今日は晴れるかね?」を分解して、今日|晴れる|だろうか?|私|疑問|あなた|聞く|欲しい|答え|理由|外出|予定|と展開できるのは、母国語だからであって、|今日晴れるか?|と私が質問を投げかけた相手は、理解して返事しているのではなく、ただ<反応>しているだけだ。
このようにいくつかの仮説を立てると疑問が生じる。
「言語が理解ではなくてトレーニングであるなら、語彙を増やすのはなぜか?」
「理解しないのなら、言語とは一体何か?」
今の所、答えが出ないのでこれは答えが出るのを待つことにする。
なんとなく感じるのは、
・禅の「空」とか、
・そもそも答えがないとか、
・理解しないことの意味とか、
・ありのまま受け入れるとか、
ーJazyk je jako hudba
ーLanguages are like music