|Od roku 2019|
§ チェコ語学習|611日|1年8ヶ月と3日
§ ヒアリング時間|1180時間
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今日仕事の話をしていてふと感じたこと。
言語学習をする前と後。
ビフォーアフターの話。
何か相手に言われた時に、咄嗟に「すみません」と言っていたのが、最近、どうやら「わかりました」と返事している自分がいる。
外国圏では、謝るは最終手段だそうだ。
自分が本当に悪いと言う場合以外は、謝らない。
これは、文化の違いで、日本人は相手とのコミュニケーションを大切にする民族だから仕方ないのかと思っていたけれど、言語学習をしたらそれが違うことに気付いた。
外国語を学ぶと、「すみません」が減る。
そして自尊心が高まる。
これは、外国語が良くて、日本語が悪いという単純な二元論ではなくて、思考パターンの話。
日本文化は、相手がいて自分のポジションが決まる。
でも外国は、自分をちゃんと持っていないとコミュニケーションが成り立たない。違う言い方をすると、相手がいなくても自立できる人が多いのが諸外国で、それはおそらく言語が影響しているのではないかと思うわけ。
日本語は、自立よりも協調性を図るための表現がやたらと多い。
そして、個人の主張よりも、全体性を大切にする。個人を主張すると、自己中だとか言われる。でも、本当に自分のやりたいことを知っているのは自己中とかいうレベルではない。はず。
言語を学んで最も変わったのは、あらゆることを前向きに捉えるようになったことと、「すみません」と言わなくなったこと。
まずもって、私が悪いって判断する材料がないのに、謝る必要はない。
この前居酒屋に行った時、隣のテーブルの人が、口頭で注文していて店員さんが「タブレットでも注文できます」と言ったら、「すいません」と言ったのである。
そこは「すみません」ではなくて、「了解:わかりました」なのだ。
|OK!
|Ano!
|Sì!
英語、チェコ語、イタリア語で表現してみた。これは言語を学んで、言語が性格を作るかもしれないと仮説を立てるきっかけになったことだ。
→ みんなに声をかけて、スケジュールが合わなかったらどうする?
日本的「別の機会に、また企画するよ」
世界的「だったら自分1人でも行くわ」
→ 自分がやりたいことを家族が理解してくれなかったらどうする?
日本的「家族は大切だから、家族の意見を大切にしよう」
世界的「自分の人生は自分で決める」
一見ドライで協調性のない人間の発言だと感じてしまう。
けれども、人生は一度きりなわけで、周りに合わせて生きた人生になんの意味があろうか。
自分のやりたいこと、在りたい姿を生きることこそ、生命だと感じるものである。