|2019-|----------------------------------
§ チェコ語学習|518日|1年5ヶ月と1日
§ ヒアリング時間|1030時間
§ 学習トータル時間|1546時間
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|2021-|-----------------------------------
§ イタリア語学習|97日|
§ ヒアリング時間|25.4時間
§ 学習トータル時間|13.3時間
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本日のビール
本日は、カールスバーグ。オランダのビールですが、スーパーで見かけることもおおい緑色のビールです。
言語ゲーム
最近ずっと考えていた謎がここ数日でドミノ倒しのように解決しています。
・なぜ、単語をたくさん覚えるよりも、ネイティブとのメッセージのやりとりを増やした方が話せるようになるのか。
・最近、チェコ単語を覚えることと、チェコ語の音楽を聞くことと、チェコ語の映画を見ることがバラバラに感じるのはなぜか。
・そもそも、第二言語を理解するということはどのようなことなのか。
最近ぼんやりと、これらの疑問を考えて学習を続けていました。
特に最後の問いについては、全く異次元すぎて想像がつきませんでした。英語をペラペラな人は、英語圏に留学したからだろうか。でも、日本で留学経験なしでペラペラな人もいる。その違いは何だろう。
仮説とか、体感とか、時期によって変わるトレーニング方法の試行錯誤とか、壁ばかりの学習を続けながら、やっぱりそうだよね。と確信していることは、たった一つのシンプルなこと。
”言語とは、コミュニケーションである”
簡単なことだけど、どうしても学習とか理解するとかそっちの方に気が向いてしまいます。ヒアリング能力がどうのとか、トークスキルがどうだとか、読解力が。。。。
ではなくて、脳は[コミュニケーションとネットワークを優先]する気がします。
単語を頭に詰め込むのはコミュニケーションが抜けているので、いつまで経っても脳が単語貯蔵庫みたいになってしまう。
自分がしたいこと(相手がしたいこと)
↓
相手(私)が存在する
これは、チェコ語を含む全ての言語学習で必須の概念だと思いますが、スピーキング能力とヒアリング能力は全く別物です。身体的スキル的としては、連動していますが。
ヒアリング能力が向上したところで、それは自己完結型のスキルであり、コミュニケーションスキルではありません。
最近、トークトレーニングをしていますが、これによってスキルが上がったと体感しているのは、その言語(チェコ語なりイタリア語なり)を使って、例文のなかで特定の誰かに向けて発しているフレーズが多いからです。
|私は映画を見たいのに、今は自分がみたい映画が映画館で上映されていない|
このような自分に向けた文章はあまり脳に響かない気がします。
それよりも、誰かがいると仮定して、
|今度の土曜日、何している?(何か予定ある? 暇?)
|何もないよ|
|だったら映画を見に行かない?|
このフレーズを覚えると脳は結構簡単に定着してくれます。
言い方は無数にありますが一例を。
|Co děláš příští sobotu? (Plánujete něco? Volný čas?)
|Nemám žádné plány
|Tak proč ne jít podívat na film?
さらにこれを声に出すことで、脳が「私はこの言葉を使ってコミュニケーションをしている」と認識し、その自己認識が全体スキルを満遍なく向上させる。脳が司令塔だという原理かもしれません。
そして、ここに単語よりもコミュニケーションが大事だと考える理由があります。
私は、上記のチェコ語のフレーズ上で知っている単語はあまり多くありません。その理由は、これも何度も書いているとおり、チェコ語は変化しすぎるので単語を覚えても色々な条件のもとに、違う単語として登場するからです。
でも、相手に対して聞くときの音の連動は理解できる。
二行目の単語の意味を完全理解しているわけではありませんが、誰かチェコ人に予定を聞かれたら、すっと「予定は何もないよ」ということを伝えるために声に出すことができる。
予定は何もない ≠ Nemám žádné plány
左は、日本人同士にだけ作用する暗号で、右はチェコ人同士にだけ作用する暗号。
単語の意味を完全理解しなくても、コミュニケーションはできる。
幼児は単語の意味を完全理解しているわけではなく、語尾に「しなさい」と聞こえたら「うん」か「嫌だ」を返しているのかもしれません。
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補足ですが、以前働いていた職場に手話を使う方がいました。私は当時手話を知りませんでしたが、|ごめん|とか|ありがとう|とか、|私が|とか|これが|とかは、ジェスチャーでコミュニケーションが成立していました。単語の意味を理解しなくても、相手に伝わればコミュニケーションは成立。
ここでは手段としてジェスチャーを使いましたが、チェコに行けばチェコ語を使って(完璧ではなくとも)コミュニケーションが成立すれば良いのでは、と。